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琢磨を温かく見守るブログ

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TAK(琢磨を温かく見守る会)のブログです。
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20080703 Thu
今宮さんは言っている。 

今宮さんは言っている。 

終っちゃうそうです。今宮雅子さんのスーアグブログ・・・。



スーアグを取り巻いた環境、ホンダとの距離
そして、まだ生きているホンダスピリッツを書いています。


ブログの記事は→コチラ


・・・・・・ジワッと来ちゃったよ。





・・・・・・・・・・・と記事はここまで。



この下は何も有りません。
ケータイの方には何か見えるかも知れませんが(笑)



















夢が潰えないために



琢磨のために創られたSAF1。
 スーパーアグリは、間違いなく、佐藤琢磨のために創られたチームだった。チームは琢磨を信じ、しかし琢磨に寄りかかることなく、琢磨に負けず“レースを戦う”自分たちを目指した。
 2005年9月、ジェンソン・バトンのB.A.R.残留が発表された時、琢磨はチームのPR活動を行なっていた。翌日、サンパウロのパドックに到着してすぐ、彼はメディアの前で「テストドライバーに戻るつもりはありません」ときっぱり言った。「テストで学べることは、2003年の1年間で十分に学べたと思うから」と。
 サンパウロのパドックは騒然とし、地球の裏側、日本ではファンの抗議がホンダに殺到。ホンダのモータースポーツ上層部は、急遽、対策を考えなければならなくなった。そこから生まれたのが、日本発のプライベーター“スーパーアグリ”である。
 こうした筋書きはすでに広く知られているが、2005年当時から(そして今も)理解に苦しむのは、B.A.R.が8月という早い段階でルーベンス・バリチェロとの契約を発表してしまった点だ。05年、フェラーリでナンバー2ドライバーを務めていたバリチェロは、しばしば同胞のジル・ド・フェラン(当時のB.A.R.スポーティングディレクター)のもとを訪れ、ミハエル・シューマッハー至上主義のフェラーリに対する不満を述べていた。しかしバリチェロを望むチームが他になかったことを考えると、選択権はホンダにあり、契約を急ぐ必要もなかったはずである。ホンダは何故、エンジニアの意見を訊ねることもなく、8月にバリチェロとの契約をコンファームしたのだろう?
「フェラーリが早くマッサを発表したいというので」------当時のホンダのマネージメントからの、意味不明の返答である。
 日本のファンの多くは、琢磨がシートを失った原因はジェンソン・バトンにあると考えた。タバコ広告の禁止を前に、B.A.R.の将来に不安を抱いた彼は“恩師”フランク・ウィリアムズと翌年の契約を交わしてしまった。しかしその後、ウィリアムズの経営難が表面化、一方でB.A.R.はホンダの所有となることがわかると一転「やっぱりホンダに残りたい」と態度を変えた。
 B.A.R.がバトンの願いを叶えて残留を望む中、ウィリアムズの契約は“絶対に破棄できないほど鉄壁”と伝えられた。バトンの気まぐれは責められても仕方がないが、ホンダにも落ち度はあった。B.A.R.が100%ホンダになるという計画を、早い段階でバトンに打ち明けていなかった点である。複数の証言から私たちプレスにさえ容易に推測できる流れであったのに、バトン本人には伝わっていなかったのだから。
 何故、ホンダは「我々の希望はバトン/琢磨のコンビです」と繰り返しながら、バリチェロとの契約を承認したのだろう? 結果、バトンには残ってほしい、琢磨は他メーカーに取られたくない、しかし残るシートはひとつ、というジレンマを自ら生み出してしまったのである。
 バトン残留の可能性は極めて低い------琢磨は「06年は琢磨/バリチェロ」のラインナップなのだと聞かされ続け、他チームと交渉するチャンスを失っていった。
 しかし、ニック・フライと彼の派閥が目指していたのは、最初からバトン/バリチェロの組み合わせだったのだ。
 05年のサンパウロでバトンをインタビューした際、“自分の心変わりのせいで琢磨がシートを失った”という責任感が微塵も感じられないことに違和感を抱いた。「ホンダは、速いドライバーがふたり必要なんでしょう?」------まったく悪気なく、彼はさらっと言った。チームから「最優先はバトン/バリチェロ」と聞かされていたのなら、無理もなかったのかもしれない。
 B.A.R.は、ホンダに対しては「ジェンソン残留の望みはほとんどない」と伝え「琢磨ひとりでは不安」と言ってバリチェロと契約した。琢磨に対しては「琢磨/バリチェロでいくから、あと少し待ってほしい」と繰り返し、自分たちの中では「バトン/バリチェロが最優先」として、バトン残留のために全力を注いだ。中心で操作していたのがフライである。
 05年の琢磨が不調であったことを考えると、自動的にチームに残ることは難しかったかもしれない。しかし誰も納得できないのは、こうした不正直なやり方である。
「僕たちにとって不運だったのは、優れたマシンを手にした04年が、琢磨にとってB.A.R.での1年目だったことだ。あれが2年目なら、僕らは勝てたのに・・・04年の彼はチームのやり方を一から学ばなければならなかった」
 03年鈴鹿から05年まで琢磨のレースエンジニアであったジョック・クリアは言った。
「そして琢磨の2年目、05年のマシンはけっして優れたマシンとは言えず、僕らは苦労することになった。ああいう年には、ドライバーの実力は判断できない。だって、ドライバーは自分が走りたいかたちで走れていないわけだから」
 2000年、イギリスの寵児としてF1デビューを果たしたジェンソン・バトンも翌2001年、ベネトン(ルノー)での1年目には大きなスランプを経験している。だからこそ、競争力の低い05年のB.A.R.007でもそつなくレースをまとめることができたのだ。同時に、琢磨に対しては彼なりに強いライバル意識を備えていた。02年の鈴鹿、琢磨が6位(最終結果は5位)にポジションを上げた時、黄色に揺れるサーキットで悔しさをかみ締めながら琢磨の後ろを走ったのは、バトン自身だったのだから。偏った政治やイギリス優先主義が介入しなければ、琢磨/バトンは成長のために必要な自我もコンプレックスも触発し合えるコンビネーションだったのだ。
 一方で、11億円もの金額を支払ってバリチェロと契約をするにあたって(現在、琢磨に関してホンダが口にしているような)エバリュエーション=能力評価はなされていなかった。
「たとえシューマッハーが相手でも、ナンバー2で甘んじてきたドライバーがチームを率いることは期待できないんです」と、バリチェロとの契約に驚いたエンジニアは言った。
 スーパーアグリの純粋なファンは、こんな不快な過去など耳にしたくないと思う。あえてそれを記すのは、スーパーアグリは佐藤琢磨のために創られたチームであり、ホンダが鈴木亜久里に無理を頼んだ結果生まれたチームであったことを、再確認するため------亜久里がF1参戦への協力をホンダに打診したのは05年2月で、ホンダは同じ年の7月にすでに、正式に「却下」の返事を伝えている。翌年に参戦する準備を考えると、その時点で時間切れ。亜久里の心から06年参戦の希望は消えていた。


亜久里からHRF1伝えて欲しいSAF1の魂。
 05年9月末から始まった「新チーム立ち上げ」の動きは、亜久里がもともと考えていたものとは違う、別のストーリーだった。10月の日本GPの際、ホンダが公言した「フルサポート」が本物の全面的支援でないかぎり、彼が不可能なこの挑戦を受け入れることはなかったはずだ。エンジンだけではなく、ギアボックスも車体も、無償に近いかたちで供給されてこそ、チームは健全な運営が可能になる。
 スーパーアグリが撤退した直接の原因は資金難とカスタマカー問題だが、ふたつの自動車メーカーが関連企業以外の大きなスポンサーもなく、自己資金でF1活動を行なっているのが日本なのだ。マイルドセブン以外、F1をスポンサードした成功例がない国で、小さなプライベーターはいったいどんなふうに企業の広告担当者を説得できただろう?
 そしてホンダF1の予算を握るフライは、05年のホンダの約束を守っただろうか。資金難に陥ったスーパーアグリについて「100億円もの負債がある」と情報を流したのは彼だが、その大半がホンダに対するもの。技術協力としてカバーされるはずの要素、たとえばカスタマーカーの使用にさえ35億円という請求書を起こした結果が“100億円”の負債なのだ。亜久里やダニエル・オーデットがチームの存続を目指して新しいパートナー、あるいはオーナーと交渉する際にも、この金額が妨げとなったことは明らかである。彼が紹介したマグマ/DICによるオファーは夢のような話で、事実、突然に消滅した。「過去の借金は負担しない」とした上でチームの存続を約束したヴァイグル案のほうがずっと現実的だった。スーパーアグリは、ホンダの全面支援を約束されて誕生したチームなのだから。
 一方で、参戦当時の鈴木亜久里がこう繰り返したのも当然。
「琢磨のために作ったわけじゃないよ。追い風にはなったけど(笑)」
 ドライバーよりもずっと長期計画でチームを発展させていく立場では、琢磨の後の世代も考えなければならない。同時に「もし琢磨がトップチームから誘われたら、気持ちよく送り出すよ。俺だってドライバーやってたんだから」という、彼らしい心構えでもあった。
 スーパーアグリの撤退に際して残念だったのは、ホンダの中にも数多くいるSAF1応援派“亜久里さんのチーム、頑張ってるよね!”“うちも負けてる場合じゃないよね”という純粋なレース屋さんたちの存在が埋もれてしまったこと。栃木研究所サイドから見ると、スーパーアグリはイギリスの束縛を受けずに自分たちの技術にトライするチャンスであり、いい意味でワークスチームに刺激を与える場であった。現場では、SAF1担当のエンジン屋さんたちがSAF1のメンバー同様に小さなチームを必死で育てたのである。
 06年の中国GPでは、(正式にはHRF1担当の)ホンダの電気屋さんが、SAF1のガレージで“暴れた”事件もあった。
「いつまでたっても家庭の電気みたいな配線してるから、いい加減にしろ!って言ったんです。前から言ってたのに、ここでちゃんとしないと鈴鹿で完走できないよ、って。なのに(SAF1のエンジニアは)“時間がなかったから”なんて言うから、そんなんだったらもういい!って言って、全員の首根っこつかまえて“帰るぞ!”って、ホンダは本当に引き上げた(笑)。ウチの若い子たちは、びっくりしてたけどね」
 というのは、暴れた本人の言葉。
「ああいう熱い人って、いいよね」
 体育会系のノリに少しびっくりしながら、亜久里は言った。時間がないのは本当なのだ。しかし彼はしっかりと、電気屋さんのエールを受け止めていた。
「本気で僕らのことを考えてくれてるってことだからね」
 その夜遅くまでかかって、SAF1はF1マシンに相応しい配線を完成した。06年最後の3戦、彼らが上海~-鈴鹿~サンパウロで上昇曲線を描いた背景には、こんなレース屋さんの“愛の鞭”もあったのだ。栃木研究所には、SAF1を邪魔者扱いする人間などひとりもいなかった。08年トルコGPでは、HRF1がバリチェロ257戦記念のお祭り騒ぎを繰り広げる傍らで、SAF1撤退に涙ぐむホンダのメンバーもいた。ファンと同じ温度の涙である。
 スーパーアグリのメンバーのおよそ20人、主にデザインチームのエンジニアたちは、すでにHRF1で仕事を始めている。管財人の下、新しいオーナーが見つかってSAF1ベースのチームが復活すれば、彼らはきっとリフィールドに戻ってくる。あるいは、それが叶わないなら、ホンダはフライの後任に鈴木亜久里を迎え、SAF1のメンバーを迎え、彼らの精神=ファンが夢見たホンダの精神を、HRF1に注ぎ込んでほしいと切実に願う。F1がファンの楽しみであるため、世界が憧れたホンダがセナの時代と同じように日本の誇りであるため、必須の選択である。

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Comment

parasol-tanto さんへ

from ジムカニアン
F1にホントのホンダが帰ってくると信じてます。
もちろん、琢磨と一緒にネ!

帰って来なかったら・・・・、
そん時はホンダ馬鹿引退ですわ!(笑)

とっても不快でとっても…涙で…

from parasol-tanto
とっても…TAKで良かったよ

なにがあってもなにを影でされてもTAKで居続けて居られて…。…今宮夫人の言葉には掬われてしまいそうな打撃に時折救われました。

SAF1が無いから終わるけれど、SAF1としての再燃が無い!とハッキリしてるから終わるけれど、琢磨君が来たらまた幕が開くよね?今宮夫人のお話。

楽しみに待ちます。赤ちゃんも、ね!都にも降りますよ~!!琢磨君の赤ちゃんはママは確信犯(笑)

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